今回はユージンのSRシリーズのお話です。
ガチャガチャ・ガチャポンラボ所長のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。
フィギュアコレクションの幕開け SRシリーズの発売秘話
今では、フィギュアという言葉は当たり前に使われていますが、かつてフィギュアという言葉があまり知られていない時期がありました。その当時のは、200円ガチャが少しづつ浸透し、中国工場の生産技術クォリティーが向上するとともに、バンダイがHGシリーズを1994年9月にウルトラマンで第一弾を発売しました。
翌年の1月に第二弾を発売してフィギュアブームとなり、HGシリーズの名がオタクごごろをわしずかみし、一般の大人までもを虜にしていくことになります。
フィギュアブームを支えた中国生産工場の技術力
バンダイがHGシリーズで展開し始めたころ、ユージンでは、ディズニーガチャの販売を開始します。1995年11月にフィギュアコレクションを完全フル彩色100円で販売して大ヒットしました。
このガチャを回した多くの層は、ディズニー好きな大人達でした。 ユージンという会社名は現在なく、
タカラトミーアーツが継続してガチャビジネスを継承しています。
エスパークス
完全フル彩色は「
エスパークス」というキャラクターで既に商品化はしていましたが、クォリティー的にはまだまだ中国の技術も追いついてない状態でした。中途半端な彩色であまり売れませんでした。
1995年になって中国生産の技術が上がり、高品質で仕入れ原価も抑えられてことにより、ガチャ商品を製造するのには最高の場所になったのです。
工場で働く人の賃金がタバコひと箱分と言われていた時代です。その当時タバコが200円ぐらいの相場で、工場で働く人のお給料が約6000円で安く商品ができるわけです。
日本人経営者による中国における工場強化
当時、香港経由で深圳の工場に行くのが当たり前で、陸路でいくか高速船でいきターミナルで現地のスタッフにピックアップしてもらいます。
初期の深圳の街並みはイミグレーションを超えるときの窓越しから見える河はどす黒く濁っていたました。
その当時は、物乞いの子供達が沢山いました、車に乗るとき気をつけないと財布を取られるのでいつも気を張っていて怖かったのを想いだします。
謎の工場トイレ
車で2時間乗って現地の工場に入るのですが、その工場は寮も兼ねており、昼夜問わず工場はフル稼働し綺麗なものではありませんでした。トイレも穴しか空いてない粗末な感じでよくここで働いているなという感じです。
フィギュアの彩色は女性の行員達が多く、クォリティーが高いので安心です。男性は飽きるのが早く集中できないのはどこの国でも同じなのでしょうか。
日本人によるクォリティー管理により飛躍的にガチャガチャの商品のクォリティーが目覚ましくアップしていきます。
フィギュア製造に他メーカーも参入してきて工場では、メーカー別に工場を設定しミーティングルームも別々に用意するまでになります。
フィギュア愛に導かれた開発者達
ディズニーフィギュアで培ったフィギュア製造ノウハウを他のコンテンツでできないかと考えている時期に、その当時ガチャ事業部でなく、横の部にいたMくんがあるアイディアを提案します。
M君いわく
ロボ系オタクで造形にも詳しくバンダイが既に発売していたHGシリーズをユージンでもやったほうがよい
というのを熱く語っていました。
早速、じゃぁ何を最初商品化するべきかを考える余裕などなく、Mくんが得意なロボ系で決まり、当時タカラで放映させていたガオガイガーをやりたいとのことで、タカラの版権部に行き版権交渉します。
蛇足ですが、その後タカラとは 「赤ずきんチャチャ」「魔法陣グルグル」のライセンスを許諾してもらい、ガチャガチャ発売していました。
しかし、タカラがガチャをやり始めます。それが「
ドラゴンキューブ」です。そのため、タカラからのライセンスはここでストップしまう結果となりました。
ガオガイガーSR
ガオガイガーの版権を取得では他は?ということで トミーで有名なオタクのSお嬢さまに版権元をご紹介していただきました。
タツノコをはじめ、手塚プロ、サンライズ、講談社など版権元は、ガチャの商品化ということでこの時期ガチャ版権はブルーオーシャン状態。交渉に行けばほぼ了承を出してくれたよき時代です。
バンダイ系のバンプレストからも版権もらったりとホントよい時代でした。
フィギュア愛に導かれた人達がユージンに集まり、ユージンガチャが爆発的に売れるようになります。共通の想いの人が集まるとこんなにも会社は変わるのかと、今までにはない経験をしました。
タツノコSRガチャ
いよいよ商品化も決定して
「バンダイのHGシリーズみたいなブランドが欲しいよね」
という話に当然なるわけです。いくつかの候補をみんなで議論しました。「匠」「マニアコレクション」等々、一番しっくりきたSRにすることに決定し、最初の第一弾をタツノコヒーローコレクションに1998年9月に発売します。いかが1988年の商品ラインナップです。懐かしさを覚えるのは40代以上の大人でしょうか。
- 1998年9月タツノコ
- 1998年10月 ガオガイガー、鉄腕アトム
- 1998年11月 サンダーバード、エルドラン
- 1998年12月 トゥーハート、ガオガイガー②
これ以降は、講談社から「あしたのジョー」「巨人の星」など渋いラインナップの懐かしいロボシリーズ「電人ザボーガー」「シルバー仮面」「スペクトルマン」など玄人向けのラインナップが目白押しでした。
フィギュア販売する上での原型師さんのブランド
ワンダーフェスティバル
※キャラ通から抜粋
ワンフェスは既に存在しており、一日版権というルールで版権元から許諾を受けてキャラクターのフィギュアを製作する売れっ子原型師さんをピックアップするのもSRシリーズでは大事でした。イベントで彼らが製作した色がついてない無彩色のキャストが高い値段で販売されそのキャスト欲しさに並ばなければなりません。そんな原型師さんにSRシリーズの原型を製作してもらい200円でハイスペックの彩色でガチャ商品として発売するれば売れないわけがありません。SNSもない時代ですが口コミでこの原型製作したのが有名原型師が製作しただけで話題になりました。ワンフェスイベントがあることでガチャガチャが世に広まったことは間違いありません、SRシーズデビュー時の限定販売や5年前に「パンダの穴シリーズ」もワンフェスで発表され話題になりました。フィギュア文化向上におけるワンフェスの功績は大きいです。その当時海洋堂の当時専務であった宮脇さんにガチャみたいな安い商品を作るから高い商品が売れなくなると言われたのを覚えています。そのあとすぐ海洋堂さんガチャビジネスはじめます。
ガチャ業界初ガチャガチャイベントが開催
この時期に積極的に「ワンフェス」や「ジャフコン」に参加し限定販売を開始します。その当時は限定でクリアバージョンが流行りでガチャを回すのに長蛇の列ができパニック状態でした。
今では新型コロナウィルスの影響で一時期マスクの転売で騒がれていましたが、ちょうど転売ヤーを見かけるようになったのもこの時期ですね。
クリアーがコスト的に一番安いのにお客さんは逆に高いイメージを持っていた時代です。
※キャラ通から抜粋
1988年7月25日に新宿野村ビルでSRシリーズ発表兼ねたガチャイベントを開催します。
このイベントのメインはディズニーガチャコレクターのガチャガチャがコンプリートできないかたのために、オフ会的にこの場所で交換会ができればと開催しました。
ディズニーのファミリー的お客さんとオタクのお客さんが混在するガチャガチャでの初イベントとなり、その後のガチャイベントが各地で開催されるようになります。
- 1998年7月 ユージンカプセルフェスティバル 新宿野村ビル
- 2000年7月 ユージンカプセルフェスティバル 葛飾テクノプラザ
- 2001年 「ガチャ博」横浜トイズクラブ主催
- 2002年7月 「ガチャポン博物館」大阪日本橋 (閉店)
- 2002年10月 「ガチャポン会館」秋葉原 (営業中)
- 2003年 「Yujin EXPO 2003」 お台場アクアマリーナ
- 2005年 「Yujin EXPO 2005」 お台場アクアマリーナ
ガチャフェスティバル
新型コロナウイルスが収束しないと、ガチャガチャイベント開催はかなり厳しいです。ガチャメーカーが30社となった今、ガチャガチャ祭りを合同開催できるイベントを楽しみにしています。
んじゃまた!!!