ユージンは、1988年2月9日に場所を東日本橋から立石本田に移転して再出発をします。
昔々は本田町 梅田町 立石町の三つの町があり駅前の立石の名前が残りました。
新生ユージンの新居地本田ビルは元トミーの寮があった場所でありその前はトミーの創業者でもある富山栄一郎氏の住居兼ブリキの工場であったのです
本田ビルの入り口を入ると左側に富山栄一郎氏の銅像があります。
ガチャガチャ・ガチャポンラボ所長のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。
新生ユージン 立石で始動開始
立石に移転してきたユージンの初代社長は、富山幹太郎氏でした。トミーの財産であるコンテンツを小物玩具 玩具菓子 ガチャに商品化しやすくなりました。
ガチャマシンは今野産業のマシンを改造したユージン仕様
まだまだこの時期はガチャマシンに投資できるお金もないので今野産業さんの赤いマシンを白くしてユージン仕様にしてもらいガチャビジネスに本格的に参入していくことになります。
100円のオリジナル商品が主力
商品は100円商品をラインナップにほぼオリジナルの商品化が主力です。その中にいまでも続く「こむしちゃんのかんづめ」があります。オリジナル商品がユージンの強みであり弱点でもありました。
幽遊白書のガチャガチャが大ヒット
バンダイは集英社キャラクター全盛でトミーも対抗して天才バカボン等に提供してキャラクタービジネスをやり始めます、イデオン、ライジンオーもその流れです。 ユージンのガチャビジネスの転機は、幽遊白書がガチャでヒットしたことです。スマッシュヒットをが出たことによりガチャビジネスのなんたるものかを理解し始め少しづつですがユージンの名前が代理店に知ってもらえるようになりました。
ガチャ商品がヒットした利益でスリムボーイを開発
ようやく利益がでるようになるといよいよ自社マシンがやはり必要ということになります。もっと効率よい補充と軒下にあるようなガチャのイメージを払拭するデザインのマシンができないかと代理店の意見を取り入れ試行錯誤の上できたのがスリムボーイです。
このマシンを開発をするので全財産を投資するいきおいでこれが売れなければ
ユージンは解体されていたかもしれません。
ガチャチームはアミューズメント事業部の自販機課として三名体制でした。
このスリムボーイが発売される頃には人数も5名になり、体制も整っていきます。
んじゃまた!!!