1888年にアメリカのニューヨーク地下鉄のプラットフォームにガム自動販売機が設置されて無人販売機が設置されました。
自動販売機から透明のボール状のガラスの中にガムやピーナッツを入れて販売を始めます。
ガムやピーナッツをと一緒におもちゃを入れて販売したらこれが子供達の間で大人気になりました。カプセルがまだなくそのままガムと混ぜておもちゃを入れて販売したのが今のガチャガチャの原型になります。
あまり知られていませんがそのガチャガチャ商品を製造していたのは日本でした。
今回は、日本がアメリカにガチャガチャ商品を輸出していたお話です。
ガチャガチャ・ガチャポンラボ所長のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。
アメリカでは最初カプセルに入れずにおもちゃをそのままガムとピーナッツに
混ぜてマシンの中に入れ販売をしておりました。中をみていただくとカプセルには入れず玩具がガムと混在しているがわかります。なのでかなり故障が多かったようです。
そしてその中身のおもちゃを製造していたのが日本でした。
1930年以降、戦争に翻弄される玩具業界
日本がアメリカに玩具を輸出していたのは日中戦争(1937年)前とと太平洋戦争終戦(1945年)以降です。
1930年前後 日本で製造アメリカへセルロイド玩具輸出
1940年前後 戦争によりアメリカ日本からの輸入を禁止
1950年前後 日本で製造アメリカへセルロイド玩具輸出再開
玩具歴史の年表とカプセルトイの歴史年表を時系列にまとめてみました。
1912年(大正)年に日本でセルロイドが製造が開始されます。
もっとともセルロイド玩具が多く製造されていた地区は葛飾区でこの地区は今でも大手玩具メーカーがあります。
腕のよい技術者が日夜セルロイドの玩具を製造していてこの地域からアメリカの子供達向けに玩具は製造されていたのです。
1920年代 目玉が飛び出る滑稽な郷土玩具が大好評
1920年代神戸人形という目玉が飛び出る滑稽な郷土玩具があり海外旅行客がお土産として持ち帰りアメリカでブームになっていました。
それに目をつけ「ポップアウトアイ」トイという目が飛び出るギミックのセルロイドミニチャームを開発したところ子供達に大好評でコレクションアイテムとなります。
40年後の1960年にペニーキングのLOハードマン氏は日本の神戸人形の魅力からペニイキングUSAでも「グリーンモンスター」を自ら商品化します。
1940年代は戦争でアメリカへの輸出がストップ
1940年前後には戦争によりアメリカは日本からの玩具商品の受け入れを禁止されてしまいます。アメリカは自国で商品化を試みメッキの技術を用いたたミニチュアトイをサミュエル・エピー氏が開発し大ヒットします。
サミュエル・エピー氏が開発したカプセル
サミュエル・ルピーはこの頃ミニカプセルも開発しています。ガムと一緒におもちゃが搬出する時にマシン詰まったりする故障を防止しする為に球形の容器を作りました。
あまり評判はよくなかったようですが、その後のカプセルにおもちゃを入れるという今の形の礎をつくりました。
1946年 国内玩具輸出の再開とガチャガチャ商品
1946年には国内の玩具輸出が再開されます。LOハードマンは日本のチャーム製造にクォリティと技術力に目をつけ重田兄弟から日本のミニチュア玩具を買い付けていました。その中には裏面が鏡になっているミニチュアの方位磁石、毛むくじゃら「キョロ目ぽんぽん」ガチャを重田龍三氏と開発していくなか、1965年にいよいよ日本にガチャガチャビジネスが導入されることになるのです。
「ポップアウトアイ」シリーズは世代を超えて大人気
「ミニだるま」は1920年代に作られ、神戸人形のセルロイドチャームは、1920年代にアメリカの子供達の間で人気のある収集品でした。「グリーンモンスター」はペニイーキングUSAによって作られています。LOハードマン氏は日本の神戸人形の魅力からこのおもちゃを作成するように促されました。同じ「ポップアウトアイ」メカニズムが仕様されています。そして1966年アサヒグラフにも紹介されガチャガチャが日本にきっかけを作ったガイコツガチャが発売されます。顎を下にひくと目が飛び出る仕組みになっています。
1910年代から日本の玩具製造技術の素晴らしさはアメリカの認めるまでになり日本の玩具輸出額を大きく拡大していきます。しかし1930年代からの戦争の影響もあり日本の玩具輸出が縮小し、1940年にはアメリカへの輸出も中止に追い込まれることになります。
子供達に罪もなく国の勝手な暴走が子供達の楽しみを奪っていきました。
ガチャガチャのある国は平和です!!!
んじゃまた!!!
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