香港にウィングマウというガチャガチャの制作会社があります。
40年前に、ウィングマウ社長のジョンウォン氏が17歳の時に今野産業に丁稚で働いており、この時ガチャガチャビジネスのノウハウを香港に持ち帰りました。
まだイギリス領であった香港を拠点に中国深圳でガチャガチャ商品を製造し日本に輸出、香港でのガチャビジネス展開で大成功しました。
日本ガチャガチャ協会のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。
ガチャガチャの生産拠点が香港を拠点に中国深圳に
今野産業は、やはりガチャガチャ業界の一番の功労者です。唐突ではありますが、日本のガチャガチャビジネスの発展を語る上で、日本最初のガチャオペレーター会社のペニイ商会(現在のペニー)と日本オリジナルのガチャガチャの礎を築いた今野産業は抜きには語らずにはいられませんね。
ジョンウォン氏の会社ウィングマウは、元々ジョンウォンの父が立ち上げた玩具会社でありましたが、ガチャガチャにシフトしていくなか、ジョンウォン氏は今野産業の今野明久氏の元でガチャビジネスを学んでいたようです。
1980年代は日本でもまだ金型をつくり、射出成型機がまだ町工場にあり、フィギュアを製造していた時期。メカものの当たり商品を香港から輸入を開始していました。
1980年代のガチャは、当たり目 中目 ハズレという 中身の配分ができており、100個中5個が当たりで半分がハズレのガチャガチャの儲け方のルールが確立された時期である。
ガチャの当たりの商品は中国深圳で製造され香港経由で日本に輸入されガチャに投入せれていた。
ウィングマウにガチャ商品を発注を開始
ガチャビジネスが安定するまで、ウィングマウを支えていたに違いないありません。
ガチャ商品の生産拠点深圳ってどんなとこだった?
中国深圳といえば、今はIT企業の中心となっているが、1980年代、香港から深圳へ国境イミグレーションを越えると黒々とした汚れた川が流れバラック小屋が沢山並んでいた。ガチャガチャ商品を安く製造できる未開の地であった深圳をビジネスチャンスと思うガチャメーカーは香港を拠点に日本に向けて商品製造を拡大していく。
ガチャガチャのフィギュアのクォリティーを上げたウィングマウ
ジョンウォン氏には、2人の子供がおり、現在経営をこの2人に任せています。
現在娘さんが、自社オリジナルでローカルのガチャガチャ商品の食べ物シリーズ や結婚式goodsシリーズなど独自なガチャガチャの商品を開発しています。
息子さんは、生産開発の方に才覚があり、工場の生産管理を行っています。
ウィングマウの工場が、深センの経済特区という恩恵に預かり、日本に低価格かつ良品質のフィギュア制作を可能にした。1995年前後からコレクターブームが「なんでも鑑定団」と共に始まりました。フィギュアという言葉がまだ浸透していない時代にガチャガチャのマシーンから低価格で完全フル彩色、ディズニーフィギュアコレクションが発売され、一気にガチャフィギュアがブームが加速する。
100円時代には、ほとんどが無彩色であったものが1995年を境に完全彩色フィギュアが発売されていきます。
低投資で始められる中国ガチャガチャビジネスとは
25年前の中国の工場で働く人の工賃は1日200円で1ヶ月 6000円の時代。戦国日本もそうであるが、小さい玩具等は設備投資も少なく始められるビジネスなので、中国で進出しやすかった。
日本が家内制工業でブリキのおもちゃを作り輸出し、外貨を稼いでいたのに似ています。
1965年に日本にガチャビジネスが始まって2020年で55周年になるが、何人かのガチャビジネスに当時携わる名前が頻繁に出てきます。
香港を拠点に日本にガチャガチャの商品を輸入したもう一人の功労者
日商貿易の廣瀬氏 現在バリューマーチャンダイジング社長、よくモヤさまに登場していたので記憶にあると思われる。このTVで、廣瀬氏のとこが 日本でガチャビジネスを最初にはじめた会社になってしまっているが、きちんと資料が存在しているのは、ペニイ商会ではある。しかし、同時期に日商貿易の廣瀬氏がガチャビジネスを日本に持ち込んでいたのは間違いないと思われる。廣瀬氏は、今年2019年に亡くなられたということで、またガチャの神様がひとりいなくなってしまい悲しいかぎりである。
重田哲夫氏が、1965年2月17日に登記された日本初ガチャオペレーター「ペニイ商会」は、蔵前厩橋からはじまり、現在タカラトミーアーツのグループ会社 株式会社ペニイとして存続している。
大阪では、林商店という会社がガチャガチャのビジネスを始めます。東のペニイ商会、西の林商店、当時ガチャビジネスを日本に拡大させた功労者達は、独立分散し今でもガチャガチャのビジネスに携わっており、何が売れるかガチャアンテナを立て、一発ヒットを狙う生涯現役の愛しきガチャ達人であります。
んじゃまた!!!