「コスモス」を受け継ぐ会社「ユウ」
1994年にユージンに入社したばかりの頃に営業担当していた会社が「ユウ」という会社がありました。この時はこの会社がコスモスの流れを継ぐ会社とは知らずに大宮に行っていたのを思い出します。
ガチャガチャ・ガチャポンラボ所長のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。
日本のガチャ市場の80%を占めていたという「コスモス帝国」と言われていた「赤い軍団」はイメージは既にありませんでした。現在の45歳ぐらいの男性には強烈な「コスモス」のロゴのイメージがあると思いますが、自分は、10歳上なのであまり記憶にはなく残念ではあるもののガチャビジネスに深く関わるにつれて「コスモス」の素晴らしさを後々に気づくにいたります。
「コスモス」は、「ユニクロ」!?
「コスモス」はほぼ解体され什器もSNKに業務を委託グループ会社の「ユウ」がガチャビジネスを引き継いでいました。20年前にギアテックというベンダーに訪問した時にこのマシーンがあったのを記憶しています。
「コスモス」埼玉県の羽生市、羽生工場団地内にあり、ガチャの企画開発~製造~販売までも自社で完結出来きる「ユニクロ」のような仕組みを日本に作りガチャマシンを絨毯爆撃のようにお店に勝手に設置していたようです。
道義的なことはまったくなく空気を売るがごとく100メートルおきにマシンを設置していたようで、効率的にコスモスロゴの名入れしてある軽トラを利用、繁殖したバッタの勢いだったのであろうか?
1988年に「コスモス」は「ビックリマン」シールの偽物を「ロッテをロッチ」にして大量生産!大ヒットしたものの当然ロッテから訴えられて賠償金を払うことになる。
「コスモス」が解体に至る原因!?
「コスモス」この賠償問題が原因で1988年経営がおかしくなり解体したのではなく、イトマンとの提携でイトマン鉄鋼部と鉄製の箱を搬出できる什器を開発したぐらいからおかしくなる。マシンカラーはコカ・コーラの赤と白のイメージしており、ロケテストは好調であったものの、箱を搬出するタイプであった為、室内、室外の湿度によって箱が変形が著しく搬出が上手く出来ず故障が多かったようである。商品も当たりハズレの差が大きい為子供達がついてこれなくなってしまった。悲しくも「コスモス」は解体されるに至る。「コスモス」に関しては、ワッキー貝山氏が「コスモス」コレクターであり、「インチキガチャガチャ大全 コスモス」の書籍もあるので是非読んでいただきたい。
メイドインジャパンからメイドインチャイナへ
30年前ぐらいから日本の工場ではガチャ商品の仕入れコストが合わなくなり当たりハズレでコストを合わすようになったのではなかろうか?「コスモス」はこの流れに乗れずに解体してしまったのも一つの原因ではないかと勝手に思っている。
30年前といえば、日本生産から中国の工場に移行しはじめの頃であり、日本にも沢山の香港にハブ事務所を置き中国に工場を作り生産を請け負う日本人エージェントが増えた時代である。
日本人が、香港 経由で中国に生産帝国を作れたりと成り上がれたよい時代であった。
お金の使い方も半端なく万札を飲み屋でばら撒く光景をよく目にした。しかし、そんなことがいつまでも続く事はなく、このような日本人エージェントは、駆逐され本来の日本人開発者のみが香港 中国に技術者としてサポート、現在の玩具業界をバックアップしている。ただし、高齢化により日本人技術者が引退もしてきており今後の玩具業界に一抹の不安を与えている。
「コスモス」は、1977年に創立されガチャ市場で売上比率80%を超えていました。1988年に解体されるまでの10年足らずで時代が変化、キャラクターの偽物の排除、生産が日本から中国へのシフト、「コスモス」はこの変化に対応できずに解体に至ります。その時代の変化に対応できない会社は潰れてしまうという好例でもあります。
んじゃまた!!!
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