日本にあるガチャガチャの推定台数70万台
ガチャガチャマシンを販売している主なメーカー4社
バンダイ:ガシャポンステーション
アーツ:ガチャ2EZ
IP 4 :スパイラックス
今野産業:赤いガチャマシン
1995年10月に発売されるユージン(現タカラトミーアーツ)が企画製造した「スリムボーイ」が登場する前までは、赤い昔からあるガチャマシンが主流でした。設置場所は、駄菓子屋さんの前や、スーパーのトイレや階段脇が定位置。量販店には設置されつつありましたが、日陰の存在でいかがわしいもの扱いをされていました。
ガチャガチャビジネスを変えた元ユージン役員Jackie氏に会って話を聞きました。
ガチャガチャ・ガチャポンラボ所長のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。
ガチャガチャビジネス界のスティーブジョブズは京成立石にある大手玩具メーカー出身です。ユージンはその大手玩具メーカーの子会社で、主に小物玩具を販売する会社でした。
1986年東日本橋設立されますが、ユージンの社歴をみると1988年2月7日になっています。1986年にユージンは小物玩具メーカーとして立ち上がりましたが、小物玩具といっても海外からの引き物が多く市場に取り残され厳しい時期が続きます。そんな中、目を付けていたのがガチャガチャビジネスです。既に大手玩具メーカーバンダイが1977年にガチャガチャビジネスをはじめており1983年には「キンケシ」で大ヒットをとばしていました。
小物玩具メーカーのユージンとしては、玩具菓子も商品化していたので小さな玩具を作ることもできるノウハウを生かし玩具菓子、小物玩具、そして、ガチャガチャ販売と同じ物をを違う流通に販売する形態で売上を伸ばしていきます。その時ヒットしたのが、「ギョロミーバ」や「こむしちゃんのかんづめ」です。このオリジナル商品がユージンの母体を支えるベースだったのです。
ガチャガチャマシン:「YJVM-001型自動販売機」
ガチャガチャのマシンは1986年当初は電動の自動販売機を使用して、自分達でマシンを店頭に設置し商品補充もしていました。このマシンの欠点が、電動なのでコンセントが必要でその当時の店頭軒先に電動ということで嫌がれ拡大までに至りませでした。
1988年に東日本橋から立石本田町に移転をします。ユージンは、自分達でのマシンのオペレーションは不効率なのでマシンは代理店に販売し、代理店に設置、補充をしてもらうことにしました。ユージンは商品の企画開発製造だけに集中、再スタートします。
ガチャガチャマシン:「YJVM-002型自動販売機」
ガチャガチャマシンは、今回は電動ではなく、今野産業のマシンを改良、改良といっても既にあるガチャガチャマシンの頭の部分を変更したものでした。1991年「ギョロミーバ」 1992年「こむしちゃんのかんづめ」が大ヒットするのですが、自社マシンの設置台数も少なく他社マシンにヤドカリ状態で商品が供給されていました。
「スリムボーイ」の名前は当初「YJVM-0003型自動販売機」
1992年には新しいガチャガチャマシンの構想はありました。量販店にはガチャガチャは設置されてはいるもののトイレ脇やエスカレーター脇でしか設置できてなかったのです。イトーヨーカドーにガチャガチャを設置されていてヨーカドーのバイヤーさまがここにガチャマシン置くんじゃないと言うぐらいイメージがよろしくありませんでした。
そこで売り場ありきの発想に切り替えどうしたら売り場にマシンが設置してもらえるのかを店舗の人に聞いてまわりました。玩具売り場は、棚が3尺、90センチなのでこのサイズにはまるマシンを作ってくれれば設置が可能かもしれないというアドバイスされました。玩具メーカーであったのでそのような回答を店舗の方から導きだせたのかもしれません。
売り場ありきとなるとデザイン性も必要ということで従来から玩具イメージのガチャガチャマシンデザインの脱却を考えるようになりました。
アミューズメント系のメーカーとも話しましたが、電気は必要だし既に電気使用の電動マシンで苦い思いをしていたのでアナログのマシンにしようということになりました。
シンプルなデザインを求め玩具以外のデザイナーに発注
アップル社のようなシンプルなデザインのマシンを開発することは可能なのか?いろいろなつてを探し元オーディオテクニカでオーディオの機器のデザインをしていたデザイナーにお願いし、デザインを100案出してもらい10点そこから選びました。1992年からの構想から本格的な開発がいよいよはじまるのです。1995年には発売されるので凄いスピードで開発されたことになります。その当時のユージンはプライズのOEMと「幽遊白書」のガチャで利益を上げていたのでその利益をガチャマシン開発にすべて投資します。一世一代の博打だったたので、このマシンが売れなかったら会社が無くなるといつも言っていたのがわかります。「スリムボーイ」という名前はマシンにも名前があった方が子供達にも愛着があるのではという玩具会社ならではの発想でつけられました。次世代型マシンは当初「YJVM-003」自動販売機として開発されていきます。
次世代ガチャガチャマシン「スリムボーイ」の登場
台湾で製造されたガチャマシン「スリムボーイ」のお披露目は1995年東京八重洲富士屋ホテルで代理店を集めて開催されました。什器の重量も14キロと軽くてよかったのですがこんなキャシャなマシン売れないよという声が多かったのを覚えています。
1995年10月に発売された「スリムボーイ」は最初名古屋からロケテストがはじまりました。しかしその当時のユージンは売れてるコンテンツの少なく毎月商品があるわけでもないのでマシンの導入もそんなにも進行しませんでした。この向い風を追い風に変えたのがディズニーキャラクターの商品化権の取得です。版権を取得できたのは奇跡で、100円でフル彩色 ケース付きのミニフィギュアが爆発大ヒットを飛ばし「スリムボーイ」もどんどん設置されていきます。更に追い風でポケモンのガチャガチャも大ヒット、「スリムボーイ」が不動のガチャマシンになるのです。
1993年ガチャガチャの市場規模と「スリムボーイ」発売後の変化
1993年ガチャの市場規模は141億円そのうちユージンの市場シェアは6%でバンダイが一人勝ちの状態です。そして、1995年からの「スリムボーイ」の快進撃により1996年ユージンのガチャガチャ市場のシェアが25%までになります。シェアが25%になったことでバンダイにつぎNo2のポジションになりました。
「スリムボーイ」登場以降にガチャガチャ市場規模が拡大
ガチャガチャ市場は、1993年の141億円から1997年には165億円と8%市場規模が拡大、
ユージンがスリムボーイとディズニーキャラクターを導入したことによります。
1996年のガチャガチャマシンの設置台数は約40万台、そのうちバンダイが12万台、ユージンが2万台の設置します。「スリムボーイ」が発売とともに価格設定も簡単できるようになり100円から200円に商品が発売されるようになります。1994年にバンダイがHGシリーズを発売、1996年にユージンがディズーニーカプセルワールドを発売し、大人達のフィギュアコレクションブームに繋がっていきます。1997年にはバンダイも「スリムボーイ」の欠点であった偽コインの対応と商品補充の簡略化を図ったマシン「BVM2002」を発売します。
現在に続くバンダイマシンとタカラトミーアーツ(旧ユージン)マシンは2000年以降に今の1台2面タイプのマシン設置がスタンダードになります。購買層の変化、設置店舗の変化は「スリムボーイ存在がかなり影響しているのです。ツタヤ ヴィレジヴァンガード、、、新規ロケーションの開拓はその当時ほぼ「スリムボーイ」でした。
「スリムボーイ」からはじまる一体形(1台2面)のマシンを超えられるマシンを開発することは今後可能なのか?凄く気になるところであります。
んじゃまた!!!!!
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